お知らせ・店主ブログ

【ブログ】茶処のおはなし(その2)

こんにちは。八王子の日本茶専門店・網代園です。

今回は南九州地方を産地とする
鹿児島茶・八女茶・嬉野茶の歴史を紹介します。

  

 

鹿児島茶の歴史

近年、茶処として急成長を遂げている鹿児島県。
本格的な栽培を開始したのは戦後のことですが
栽培面積・年間生産量は静岡県に次ぐ2位です。

鹿児島茶の起源は、いろいろな言い伝えがありますが
室町時代、京都の宇治からやって来た寺の僧が
吉松(現在の湧水町)・般若寺の境内で栽培したのが
最も古い記録として残っているそう。

産業として着手するのは江戸時代、
薩摩藩が奨励したことで、各地で茶栽培が始まりました。
県北部(現在の阿久根市など)が主な生産地でしたが、
開国をきっかけに輸出用茶葉のニーズが高まり
薩摩半島南部や曽於市などにも茶畑が広がっていきます。

温暖な気候と、桜島の火山灰がもたらした肥沃な土壌が育む鹿児島茶。
当初は、他県茶の味や香り・水色を整える “ ブレンド用 ” として重宝し
一般的な「やぶきた」品種以外にも、「ゆたかみどり」「あさつゆ」など
生育速度や味わいの異なる多様な品種を扱っているのが特徴ですが、
現在は地域ブランド戦略を強化、「かごしま茶」としての知名度も向上中です。

知覧町・頴娃町・川辺町の合併により成立した南九州市が主産地で
広大な平地を利用した機械化、スマート農業の実用化なども進んでおり
今後もシェアを拡大していくことでしょう。

 

 

八女(やめ)茶の歴史

明時代の中国で修行を終えた栄林周瑞禅師(えいりんしゅうずいぜんし)
帰国後に建立した霊巌寺の周辺へ、持ち帰った茶の種子が植えられ
八女茶発祥の地として知られています。

中国で発展した釜炒り(摘んだ茶葉を蒸さずに釜で炒り上げる)
という製茶技法も、このとき伝えられたとされており、
大正初期ごろまで、八女地域を含む県南部でつくられるものの多くは
釜炒り製か天日干しを利用したお茶(日乾茶)だったとか。

激動の開国期を経て、海外だけでなく国内市場に目が向けられると
静岡から技師を迎え、当時人気があった蒸し製法を学びます。
筑後茶・笠原茶・星野茶など、釜炒り時代からあった複数の名称を
八女茶と統一し、品質の高い蒸し製緑茶の製造へ舵を切りました。

八女茶の特徴は、濃厚な甘みやうまみ。
茶畑に寒冷紗(かんれんしゃ)と呼ばれる覆いをかけ
日差しを遮ってつくる玉露の生産でも有名な地域です。
なかでも、昔ながらの稲わらを使って被覆を行なうなど
当時の伝統な技法を守り栽培された「八女伝統本玉露」は
日本茶で初めて地理的表示保護制度(GI)に登録されています。

主な産地は、九州最大の筑紫平野南部に位置する
福岡県八女市、筑後市、八女郡広川町など。
周瑞禅師の留学先であった蘇州霊巌寺の景観に似ていたことから
この地を選び、茶の種子と製茶法を伝授したともいわれています。

  

 

嬉野(うれしの)茶の歴史

嬉野温泉で有名な佐賀県・嬉野市は、茶の名産地でもあります。

室町時代、中国から移住した陶工たちが自家用に茶種を播いたのがはじまり。
その後、同じく中国から移り住んだ紅令民という人物が南京釜を持ち込み
これを利用した釜炒り製法を嬉野に伝えたことで、産地が拡大していきます。

長崎街道の湯宿として栄えた嬉野宿には
幕末の思想家である吉田松陰や、ドイツ医師のシーボルトらも宿泊し
この地の茶についての記録を残しました。
また、長崎の女性茶商・大浦慶(おおうらけい)が嬉野茶を輸出。
民間人による茶貿易の第一号とされています。

嬉野茶は、葉を細長く整える精揉(せいじゅう)の工程がなく
くるっと丸まった勾玉状の葉形をしていることから
玉緑茶(たまりょくちゃ)ぐり茶(グリ茶)とも呼ばれます。
蒸し製と釜炒り製の2種類があり、歴史が古いのは後者ですが
今は蒸し製玉緑茶が主流となっています。

栽培が行われている嬉野町と長崎県東彼杵町にかける地域は
世界的に有名な有田焼や伊万里焼、唐津焼、肥前吉田焼などの産地も隣接。
陶磁器の発展とともに茶の歴史が築かれてきたことがわかります。

 

 

まとめ

日本各地、風土に根ざした魅力的なお茶が
まだまだたくさんありそうです。

気になる産地があれば、
ぜひ教えてくださいませ。

それでは皆さま、すてきなお茶時間を。