お知らせ・店主ブログ

【ブログ】番外編・ご先祖さまのおはなし(その2)

こんにちは。八王子の日本茶専門店・網代園です。

秋のお彼岸を迎える9月。
昨年に引き続き、網代家のご先祖さまに関するおはなしです。

番外編ですので、ぜひ気軽な気持ちでご覧ください。

番外編・ご先祖さまのおはなし(その1)

 

 

戦時中の茶商い

昭和11年、八王子は市政20周年を迎えます。
記念のパレードでは、さまざまな企業が大八車(だいはちぐるま)を引き回し
網代茶舗は、えびす様が茶壺を抱える装飾を施しました。

戦争の色が濃くなってくると、鉄製品の供出運動が活発に。
子どもたちの遊び道具になっていたトロッコの線路や
お釜まで回収され、米を炊くときは大きな土鍋を使ったそうです。

現在の茶袋は、保存性に優れたアルミ袋が一般的ですが
当時は紙袋にお茶っぱを詰めていました。
仕入れた和紙に防腐・防湿効果のある渋(しぶ)を塗り、
裁断後、うどん粉(小麦粉)でつくった糊で袋状に貼り合わせたあと
版木で刷った商標紙を貼りつけます。
販売するまでの手間は、今の数十倍はかかったことでしょう。

戦時中、統制品に指定されていたお茶は
どの店でも一号・二号・三号という名前をつけ
それぞれ同じ価格で販売しなければなりませんでした。
今も店で使用している「網代園一号」「網代園二号」という茶銘は
このときの名残です。

 

 

大空襲を生き残った蔵

昭和20年8月2日未明、アメリカ軍による八王子大空襲が決行されました。

7月31日、日本全国の都市に空襲予告のビラがまかれ、
水戸・前橋・西ノ宮など、12か所の地名のなかに八王子の文字があったそうです。
事前に予告されていたため、他の町から消防車が集まりましたが
たった2時間の間に、本土空襲では3番目に多い1600トンの焼夷弾が落とされ
市街地の約8割、7万人が被災。
市民1人あたり10個の焼夷弾が投下された計算になりますが、
店の敷地にも、3個の焼夷弾が落ちた跡があったと聞いています。

空襲により、店や自宅、茶工場などは焼失してしまいましたが
幸いなことに、蔵が3つとも残りました。

消防団に所属していた三代目・政治(まさじ)は、
蔵の中を空にし、空襲後も2週間ほど扉を開けずにおきました。
多くの荷物を保管する蔵は、たとえ焼夷弾の直撃を免れても
周囲で発生する火事のために、内部へ熱がこもります。
辺りが鎮火した直後に蔵を開けてしまうと、急に酸素が流入し
再び火が出て、数日間はあちらこちらで延焼が続いたそうです。

  

 

戦後の暮らし

政治の機転で残った蔵の中で、家族は生活を始めます。
幸い、川口村(現在の川口町)に妻の実家がありましたから
必要な物資をリヤカーで運び、日々を過ごしました。

蔵にあったたくあんの樽は、周りが熱で焦げてしまいましたが
中央の部分だけは、なんとか食べることができたそうです。
食べるものがなかった時代、ご近所の方と分け合ったと聞きました。

政治は幸いにも徴兵されませんでしたので、
戦中・戦後の物のない時代を、たくましく生き抜きました。
お茶が不足し始めると、茶葉を詰めるために用意しておいた茶袋や
その原料の渋紙など、手元にあるものはとにかく何でも売ったとか。
お茶の中にお米を隠して運び、ヤミ屋のような商売もしていたようです。

ただ、いつ赤紙が届いても不思議ではないと覚悟していたのでしょう。
自分が出征したあと、どうすればよいかを指示する書付が残っています。
店主にとっては、優しい祖父のイメージしかないそうですが
想像もつかない苦難を乗り越えた人なのだと思います。

 

 

まとめ

物に溢れ、生活が豊かになった現代が
こうした歴史の地続きにあることを
やはり忘れてはいけないなと、改めて感じます。

網代園の昔話、また機会があればご笑覧ください。

それでは皆さま、すてきなお茶時間を。